2010年1月6日水曜日

その3 道路をシェアする

前回は“移動の自由”について触れてみた。

今日はその自由を阻害しているモノあるいは意識について考えてみたいと思う。

現在の道路は自動車中心でつくられている
経済の成長期に消費物としても物流のインフラとしても自動車は中心的な役割を担った。加えて、自動車・道路・燃料に関わる多くの徴税や免許などの周辺の制度により行政の財源としてもその基盤を支えた。

財源になり(つまりそこには利権が存在する)、利用を伸ばしたい手段については高いプライオリティをおいて優遇措置を図るのは当然のこと。その結果、道路は自動車をよりスムースに多く流すために最適化されつづけてきた。

その結果、モーターサイクル、歩行者、軽車両、自転車、ローラースケートといった他の移動手段についての対応の優先順位は低くなった。

その、自動車に目が行きがちな意識が表現された結果が今の道路なのだ。

自動車中心度は路側帯を見るとよくわかる
一番端的に表現されているのが路側帯だ。かつて、その他大勢の交通手段を包含する場としてかなり幅広く設定されていた。まだ、自動車がさほど多くない時代、荷馬車やリアカー、自転車、歩行者が路側帯を基盤にゆるやかに道路をシェアしてきた。

その後、道路の効率化を目指した設計の中、車道の多車線化、車輌の大型化に対応した車線幅の拡大を受けて、路側帯はどんどんとその幅を狭める様になった。

こうなると、その他の交通手段はとても肩身が狭く、危険な状態に置かれる様になる。自転車は歩道に上がる様になり。軽車両はあまり道路を通行しなくなった。危険を感じてまで車道を走行し続ける人は、必要性が極めて高いか、鈍感であるかどちらかに限られる。

自動車以外の利用者の利用者はどんどん減り、車道が自動車専用化していった。ドライバーもその状態が当然となり、他の存在は単なる邪魔する存在としてしか考えなくなった。

車道(≒道路)がシェアするものではなくなり、他の手段が排除されたことで、前回触れた“移動の自由”も大分その幅を狭めたのだ。

その2 移動の自由を意識してみる

民主主義社会では、個人の移動は自由は一応は保証されている。ただ、日本の現実を見るとすべてがそうなっている訳では無い。

徒歩:これはかなり自由かもしれない。唯一クルマ中心に作られている道路が快適な歩行を阻害することが多々ある位か。

自動車:これは道路環境としては最も優遇された存在。ただ、有料道路やHシステムといった監視システム、細かく定義し運用されている道交法で、運用上ではかなり制限・監視されている。

モーターサイクル:同じ動力付きだが、遊びや反社会的行為の道具と見なされあまり優遇されていない。乗り入れ制限されている場所も多く、高速の二人乗り規制も依然かなり存在する。

軽車両:馬や荷車、3輪の自転車タクシーもこのカテゴリーに入る。かつての主役は今やまったくその存在を考慮されずに道路づくりや運用が為されている。ひとたび道路を行けば確実に邪魔者扱いされ、かなり危険な目にも遭う。

自転車:道交法でコントロールされる存在だが、運用上はまださほど厳しく適用されていない。ただ、道路環境の中で言えば、クルマ中心の道づくりの中で危険かつ快適で無い状態に置かれることは多い。何より、徒歩に次いで利用人口が多い。

もう1つ・・・・
ローラースケートやスケートボード:これらは交通行政の完全にアウトサイドの存在だ。公式には街中にどこも走る場所は無い。ゲリラ的に走行するより方法は無い。
(これこそ、遊びのものではないか。という意見が多いと思うが、フランスのパリなど欧米の街では移動手段として活用する人は多く、実質的には市民権を得ている。http://france-tourisme.net/s-Paris/p-rollerblade.htm

実はあまり自由ではない日々の移動
移動手段別に概観してみると実はあまり自由になってはいない現状に気がつく。道路は多くの人たちが利用するものであり、うまく融通して運用しなければスムースに利用することができないのは当然の事実だ。ただ、現状の基準が適切かどうか?となると色々と考える点は多い。

2010年1月5日火曜日

その1 もう一度書いてみようかと思います

昨日のニュースで自動車雑誌「NAVI」の休刊が報じられた。創刊以来の読者で、かつて1年間連載の場を得。その後も何度か誌面に出る機会をもいただいた。社会と自動車を跨いで考え・語る、ユニークなコンセプトの雑誌だった。最近は大分そのあたりも薄まり存在感が希薄になっていたのかもしれない。しかし、何より自動車と社会との関係が変わったのが大きく影響したのだろう。

かつて、連載をさせていただいた時のテーマは「シティバイキング」、街と自転車、生活と自転車の関係を考え・語ることを狙っていた。当時、自転車を日常的に比較長めの距離で利用する文化は一部の趣味人の間だけのことで、社会一般にはあまり理解されていなかった。

それから、15年以上を経た今、自転車と街を取り巻く状況は大きく変化し、自転車通勤も一般的なこととして認知される様になった。かつて、連載した時は、ほぼ読者からの反応はゼロに近かった。文章が稚拙なこともあったとは思うが、まず興味を持つ人が居なかった。対して、現在、自転車、自転車と街・交通を語る人は増え、関心を持つ人も増えた。
(連載が終了して10年ほどしてからは「連載、読んでました。」とおっしゃる人に良く出会う様になった。)

社会と自動車を語る1つの時代の終わりに、社会と自転車を語ってみる。これも新たな時代の始まりかもしれないと考え、また始めてみようと思った。